最近、私の頭の中をぐるぐると回っている言葉が3つあります。
- 人間万事塞翁が馬
- 禍福は糾える縄の如し
- 足るを知る者は富む
です。
中でも「(人間万事)塞翁が馬」という言葉に強く惹かれています。1と2は似たようなものですね。
「塞翁が馬」の意味
人生の禍福は転々として予測できないことのたとえ。[補説]昔、中国の北辺の塞とりでのそばに住んでいた老人の馬が胡この地に逃げたが、数か月後、胡の駿馬しゅんめを連れて帰ってきた。その老人の子がその馬に乗り落馬して足を折ったが、おかげで兵役を免れて命が助かったという故事から。
コトバンク、デジタル大辞泉より引用
とあります。
その時は不幸だと思っていたことも後から振り返ってみれば決して悪いことではなかった、場合によっては良かったこととさえ考えられる、そうした意味合いとして捉えています。
私の例
なぜ私がこの言葉に惹かれているか。
私自身がしばらく前に「ひどく苦しんだことが、今となっては一面では良い働きをした」とも捉えられるようになっているからです。
具体的に書きます。
酪農業へ転職してしばらく経った頃、人間関係や仕事・家族の在り方をひっくるめた複合的な壁に突き当たり、どん底に落ちる経験をしました。当時は心底苦しく、体調にも異変をきたしました。苦しさしかなく、「何一つ良いことなんてない」という考えが頭を占めていました。
そのような中、その苦しさから逃れられる手段としてFIREという概念を知り、すがる思いで資産運用を考えるように。結果的に、資産運用について真剣に調べ着手するに至りました。
私自身は、以前から「資産運用について一回ちゃんと考えた方がいいかな」ということをぼんやり思っていました。しかし、切迫性がなかったゆえに思うだけで何か行動をすることはありませんでした。
だからこそ、今となれば「あの出来事があったからこそ、資産運用に真剣に取り組むようになり、将来に希望を持てるようになった」と思えるようになったのです。
この変遷に、まさに塞翁が馬という言葉がしっくりきています。
塞翁が馬から考えられること
塞翁が馬という言葉からよく思うことがあります。
過去にあるのはあくまで事実だけだということです。
それをどう解釈するかで自分にとっての過去の価値は変わり得ます。
解釈する自分も時の経過に伴い変化していきます。
自分が変わると、同じ過去を見たとしても解釈は変わっていきます。
塞翁が馬の辛い側面
個人的に「塞翁が馬」という言葉は大変前向きなものとして捉えています。
辛かった過去にも意味を見出すきっかけを与えてくれるからです。
一方で難しい面もあると考えています。
つまり、「苦しみの真っただ中ではこの言葉を考えられる余裕がなく、どうしても辛さだけが際立つ」ということです。
苦しい経験から意味を見いだせるというのはあくまで事後的だと思うのです。要は結果論だということです。
雑感
就職活動をしていた頃に、ESなどによく座右の銘を書く機会がありました。
しかし、当時の私には座右の銘が明確にはありませんでした。困って、なんとなく「親しき中にも礼儀あり」と書いていたことを覚えています。その時は多少なり本当にそう思ってはいました。
しかし、30代となった今の私が冒頭に挙げた言葉に対して、心底納得する感じとはやはり別物。
端的にいえば、苦悩した経験の深さが違うのだと思います。学生時代にももちろん様々なことに悩みました。それでも社会人として仕事をするようになってから苦悩したこととは質があまりに違ったように思います。
何もかもを投げ出して知らないところへ消えてしまいたい。学生時代の悩みからはそんな考えに至ることはありませんでした。しかし、しばらく前の私は心からそう思っていました。
こうした経験からある種の人生観・人生哲学が芽生え始めた頃に「塞翁が馬」のような言葉に出会うと、強い感銘を受けます。
より多くの言葉を知ることが多少なり人生を豊かにするような気がしています。